FC2ブログ

記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

F.Scott Fitzgeraldの目

グレート・ギャツビーを読みまして、感想文を書きました。
ありがたいことに優秀賞を頂きました。

JAZZ好きがきっかけで、手に取った一冊でもあります。
時代背景と絡めての考察などです。長くて、かための文章ですが、良かったら読んでみてください。

光文社エッセイコンクール→http://www.kotensinyaku.jp/konku-ru/
掲載公式ページ(本名注意)→公式HP


◇◇◇

 初めてこの本を読んだのは高校二年生の夏だった。学校の図書室に洋書棚があり、原文を平易に直した英語の本が並んでいた。読書を楽しみつつ、英語の勉強にもなる。読めそうなレベルのものを片端から読んでいた。その中にThe Great Gatsbyがあった。聞いたことのなかった本なのに手に取ったのは、あらすじの「ジャズ・エイジの輝きと虚しさ」というフレーズがなんとなく気に入ったからだ。ジャズは嫌いではなかった。夏の物語なのもよかった。

 当然ながら、繊細な言い回しは省略されている。微妙なニュアンスを表現する単語は、大雑把に言い換えられている。そして私はあまり真面目な読者ではなかった。それでもこの物語は、心の片隅に居座った。ラストが衝撃的だったからだろうか。「灰」の描写は特に奇妙だった。T.J.Eckleburg博士の目。皮肉にも取れる、多義的な題名は答えのない神秘だった。いずれにせよThe Great Gatsbyは、転がったまま見つからなくなったピーナッツのように、どこかに残っていた。

 大学生になって、原文を読んだ。これは大した読書体験ではない。ただ曖昧な靄がかかった印象を受けた。けれど、それは自分の英語力の問題だと思った。いくつかの難しい単語や表現は、まだ私には理解できなかった。背伸びせずに邦訳を読むべし。ほどなくして村上春樹訳を読んだ。しかし曖昧な印象は拭われなかった。日本語にされてなお、靄がかかったままの文章に唖然とし、もどかしかった。同時にF.Scott Fitzgerald の詩才に驚愕した。極めて丁寧に、神経質なほど繊細に、情景や心情を描く。そう、時に輪郭のみ描かれて、内実は宙ぶらりんのままだ。肝心な所で、想像力のない読者は煙に巻かれている感じがつきまとう。

 翻訳というのが如何に難しい作業であるのか、翻訳の経験がない私にはわからない。しかし、言語間にはどうしても埋められない溝がある。多義語をはじめ、独特の言い回し、語感など……。完璧な翻訳はない。知らぬ間にThe Great Gatsbyの虜になっていた私は、一つの翻訳では満足できなかった。別の訳を読めば、違う側面から見たら、靄の向こうが見えるかもしれない。それには、素人に違いのわからない訳を読むのでは意味がない。だから古典新訳文庫の小川高義訳を買った。本屋で見かけたとき、即座に心は決まった。古典新訳文庫からは、革新的な良訳が多く出ていると思う。これまでに『カラマーゾフの兄弟』をはじめ何冊も読んでいる。今回も期待は大きかった。

 読みはじめて間もなく、視界が開けた、と感じた。一行一行追うごとにぞくぞくした。余分な「遊び」が出来る限りそぎ落とされた、簡潔な訳だった。危険を顧みない、斬新な解釈だった。長い間私を惑わせた、The Great Gatsbyを包む靄は、翻訳家の手腕によって払うことのできるものだったのだ!

 そんな馬鹿げた幻想を抱いていたのも束の間だった。第二章の冒頭で「灰の谷」が出てきた時には、既に自分の認識の甘さをとことん思い知らされていた。もう永遠にThe Great Gatsbyの虜であることから、免れ得ないと悟った。私が曖昧だ、靄だ、と感じていたのは何だったのか。物語を描いている言葉そのものである。文章から言葉を取ったら何が残るだろう。The Great Gatsbyが言葉から成り立つものである以上、そこから曖昧さを差し引くことは絶対にできない。

 もちろん曖昧でない言葉は存在する。Yes。No。好き。嫌い。でも、ある文脈の中に置かれた時、色味を変えない言葉はない。特に肝心な時に、F.Scott Fitzgeraldはそうした玉虫色の表現を使ってくる。題名すら例外でない。

 だからといって、新訳は無意味な試みであったなんて全く思わない。ヴェールに包まれたものがある。何を包んでいるのかわからないヴェールをとる。すると下にもう一枚ヴェールがある。それでもやはり、一枚目のヴェールをとることは必要なことなのである。追究は果てのない試みである。こうした意図が小川氏にあったかどうかはわからない。少なくとも私にはこうした意味が感じられただけのことである。

 四回も通して読むと、真面目な読者の一回分ぐらいにはなるのだろうか。小川氏の訳を読んで、物語を追いながら、はからずも同時に思索していた。慣れ親しんだものに対しては、自然と考えが生まれるものなのだろう。

 言葉が曖昧であったという結論も、私の性急な思い違いだった。はっきりした文脈では、言葉ははっきりした意味を与えられる。曖昧なのはストーリーそのもので、曖昧なのは登場人物そのもので(当然語り手のニックも含む)、曖昧なのはそれらの背後にある時代そのものなのではないか。

 そしてこの曖昧さこそが、The Great Gatsbyにはかりしれない魅力を与えているのではないだろうか。この物語は生きている。気まぐれで矛盾している。冷酷さと温かさを持ち合わせている。でもばらばらになることなく、まとまった一個体なのである。

 曖昧というのは、見方によっては胡散臭さにもつながる。小川氏による解説にも、「ギャッツビー自身と同様に、たたけば埃が出そうな作品」とある。曖昧というのは、様々な意味を持ちうる、ということである。様々な意味を持ちうる、ということは、結局なんの意味も持たないのと同じなのである。そう思うと、曖昧さは胡散臭さになる。

 主人公(あくまで形式的な意味で)のギャッツビーは多くの人にとって靄に包まれた存在だった。胡散臭かった。人々に身の上を様々に想像されたギャッツビーは、結局人々にとってなんの意味も持たなかった。

 語り手のニックは、自分自身を正直者と自負している。だからこそ語り手に選ばれたのだろうが、ジョーダンにかまけたりして、時に読者を置き去りにする。そう、彼はこの物語の第三者ではない。深く考えたり、軽く流したり、The Great Gatsbyの中に生きている一人の人間である。小説を読み進めながら、時々ニックに反発するのも致し方ない。

 「過去を繰り返すことはできない」(村上春樹訳では「再生」となっている)。これはニックがギャッツビーに対して言った台詞である。
 
 確かに科学的に過去は繰り返せないものだし、ギャッツビーは過去を繰り返せなかった。だがブキャナン夫妻はどうだろう。トムの浮気相手はいなくなり、その亭主もいなくなり、デイジーの浮気相手もいなくなった。デイジーはトムとの過去を取り戻したとはいえないだろうか。ニックの台詞が胡散臭く感じられてしまう。

 こうなるともう、この本自体が胡散臭く感じられる。でもそれが作者の狙いだったとしたら?

 時代背景についても述べておきたい。ジャズ・エイジと呼ばれる時代のことである。ちょっとしたジャズファンの私としては、もっと掘り下げて考えたい。二〇年代は確かにジャズが大衆化し、流行した。だがこれはジャズの歴史において、良くもあり悪くもあった。なぜなら大衆化したジャズは、そもそも大衆受けするように作られたものだったからだ。その音楽は、本来ジャズの持つ様々な美点が取捨選択され、強調された結果だった。ギャッツビーのパーティでジャズを演奏したのも、ビッグバンドであった。彼らが演奏したのも、ダンスミュージックに成り下がったジャズだ(成り下がった、としばしば熱心なジャズファンはいう)。

 だからジャズ・エイジは単にジャズが流行した時代だ、と解釈するのはせっかちなのだ。大衆が主導権を持ち、ジャズという極めて内輪向けの音楽ですら商業主義に染まった、そんな時代だったのである。
 
 その時代では、様々なものごとが、それまでの「らしさ」をたやすく放棄し、宙を漂い始める。何を求めて? 「胡散臭い」大衆の支持、「胡散臭い」金である。その時代では人ですら宙を漂う。大金持ちのトムは、とってつけた知識で、とってつけた議論を展開せずにはいられない。何もかも、自分が何者かわからなくなる時代。全てが曖昧になった時代。全てが意味を持たない、そう敏感な人々がうすうす感じていた時代。

 パラドキシカルではあるが、人々のそうした感覚は、超時代的なのだ。だからグレート・ギャッツビーは息絶えない。

 ほぼすべてが曖昧で成り立っていて、靄に包まれていて、そうして気取っているThe Great Gatsby。しかし、「なんの意味も持たない」と言わせない確固たる存在感がある。何か揺るぎない、有無を言わせないものがThe Great Gatsbyにはあるはずだ。

 T.J.Eckleburg 博士の目である。靄がかったこの物語で、それを逸脱してはっきり迫ってくる。物語に描かれながら、物語の外に存在するのである。トムがにらめっこして、渋い顔をした目であり、ウィルソンが「神の目」と信じている目である。

 The Great Gatsbyの内容を思い出すときいつも、この目がつきまとうのだ。F.Scott Fitzgeraldは、この目を通して、この物語を俯瞰しながら、読者を見ている。誰もが心の底で気付いている、果てのない問いを我々に投げかけているのである。

 恐らくThe Great Gatsbyは私の生涯の課題となる。夢を見ても一生。現実に生きても一生。金持ちでも一生。庶民でも一生。この本に苛立ち、この本になぐさめられながら、この本を通してT.J.Eckleburgの目に問い続ける。人生の意味はどこにあるのか、揺るぎないものはどこにあるのか、と。


◇◇◇


最後までお付き合い頂きありがとうございます。
コメントなど、お気軽にどうぞ!




関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。