FC2ブログ

記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

人の間で生きることと、お金

8/20
舞道パーティ~Extravaganza spinoff~に参加してきました。

大阪、谷町にあるダンススタジオの創設者のニランジャン・アムビカーご夫妻が、アメリカに発たれるということで生徒・関係者一同で送別会をしたのです。私はまだスタジオにお世話になって1年ちょっとでしたが、スタジオ自体8年前からありますし、その前もニランジャンが別のスタジオの講師をしていた時代の生徒さんまで集まって大盛況でした。

ニランジャンは日本の気候ではもうダンスを教えることができない身体状態で、やることはすべてやったという節目での渡米です。暖かいところで療養されるそうです。

ご夫妻が日本に来て12年間、そのドラマを垣間見た時間でした。

知らない人達がほとんどでしたが、みんなで昔の公演の曲を踊ったり、持ち寄りの量が多くて多くてあり余るくらいだったり、このお二人が作っていた「場」と「つながり」が、いかに多くの人の拠り所であり、楽しみで、人生の喜びであったかが、とてもよくわかる4時間でした。来るもの拒まずで、比較的新参者の私でも、居場所があり、楽しくて、そういうあたたかい空間でした。

付き合いの長い他の先生や生徒さん方がこの送別会を企画していました。タップダンスも出来る箱で、みんなで持ち寄りパーティです。参加費にはお二人への餞別も含まれていて、だから私でも参加しようと思いました。ダンススタジオのお二人には少しでも良く生きていて欲しい。他には何も役に立てない私でも、何千円か分けるくらい、お金の余裕はあります。

最近考えていることがあります。
働いていることについて、お金について。

「金の切れ目は縁の切れ目」という言葉がありますが、貨幣経済で分業の細分化したこの社会では、ある人にお金を渡すという行為は、その人に生きていて欲しいからに他ならない。私たちの生活は、実はとても単純な原理でまわっているのかな、と思うのです。

例えば、食べ物を買うことだって、食べ物を生産してくれる人に生きていてほしいから、買う。誰かのライブに行くのだって、自分が楽しみたいからというのはもちろんあるけど、その「楽しみ」を提供してくれる人に生きていてほしいから、お金を払って見に行く。あるバーが好きで、そこに通うのだって、そこでの飲食代が、そのバーの経営者の生きる糧になる。続いてほしいから、生きていてほしいから、そこにお金のやりとりがある。

社会人になってまるっきり、お金に関する考え方が変わりました。思えば学生だった頃は、親がお金の仲介者となっていることが多く、(例えば学校の授業でも)自分で払う、自分の稼いだお金で払うことをあまりしなかった。高校生になってアルバイトもしましたが、おこずかいで買えないCDや漫画を買ったり、友人とカラオケに遊びに行ったりするのに使いました。その程度だったので、例えば誰かに何かをお願いする際、お金を対価にすることは何か汚らしいことに思えていました。政治家の献金問題とか、そういう負のイメージがどうしてもぬぐいきれなかったのだと思います。自分も何か「お金を貰うために」何かするとかいう世界と距離を置いていたかった。私は別に「お金」が欲しくてやっているのでは無いんです、とクールな態度でいるのが当時の価値観でした。

社会人になって、一年目はBtoCの営業もして、お客様のご自宅に訪問していたりもしました。まさしく「お金を貰うために」、建前はいろいろありますが、会社の商品を通してお金を貰うために働いた時間でした。中には「あなたの背中を押したい」といって商品をご検討いただいたお客様もいました。そこではお金が誠実と信頼の最大の表現でした。

商品解約の申し出から、なぜか人生の話になり、最後とても私にたくさんの励ましの言葉を下さり、いつの間にか解約の話が立ち消えになっていた時もありました。その時は「人間性」を買ってもらったのかな、と大それたことを考えていましたが、今から思えばそれは、私が生きていていいよ、という表現のひとつだったと思います。ほんの気分とかかもしれないですが、自分の生活に、お金に余裕のあるうちは、無理に私を苦しめること、しないよ、という気持ち。

二年目、転勤になり、商売のまち大阪に来ました。仕事の内容はまるで変わり、一日一歩も外に出ない仕事になりましたが、プライベートで外に出ることが多くなりました。チェーン店ばかりの東京と違い、個人の商店が多いまちです。家の近くの定食屋さんに初めて行ったとき、あまりに美味しくて、にまにましながら食べていました。ごちそうさまです、といって帰るとき、お店のおかみさん的な方が、おずおずと、「あの、よかったらまたいらしてください」と言ってくれたのをまだ覚えています。私はそのお店のご飯がおいしくて、また食べに行きたかった。また来てほしいと、向こうも思ってくれていて素直に嬉しかった。そこには以前なら感じていた「お金を貰うために」に伴ういやらしさが微塵もなかった。心から食べに来てほしいと思っているし、心から食べに行きたい。お店に続いていて欲しいから、お金を払ってご飯を食べる。

ダンススタジオの解散に伴っておきた、一連の人々の動きで、ぼんやりと思っていたお金への考えがはっきりとしたように思う。好きな先生に習いに行くのだって、お金を払うことになんのためらいもない。逆に必要ないもの、欲しくないものには我々はお金を払わない。必要なものが、ひと、に結びついていた時、そのひと自体、にお金を払うことにもなんのためらいもなくなる。

でもご夫婦への餞別も、送別会参加費の一部とかいう別の目的に見せかけていたり、こういう建前はとても美しいと思う。それは受け取り手への配慮であって、お金でつながることに抵抗のある人たちへの配慮でもあるから。二ランジャンの昔の写真なども買うことができ、それも餞別になった。感謝している方々にお金を払えることがとても嬉しかった。

大好きな、生きていてほしい人にはお金(やコスト)を払うのが愛情表現でもあるのでしょう。ちょっと宗教ちっくに言えば社会で「生きている」存在への赦し、をお互いにしている感じになるのでしょうか。

スタジオは、はじめは存続には維持費用や管理する人手がいないということで、無くなる話でした。別のスタジオを探しはじめた人もいました。それが送別会(ご夫妻の渡米直前です)の一週間前に、急遽スタジオがそのまま使えることになったということです。みんなにとってとても嬉しいニュースでした。(ニランジャンのレッスンはもう無いけれど・・・)ある先生が次の練習場所を探していた時に出会った会社の社長さんが、力を貸していただくことになり、存続することになりました。その方も、ダンススタジオの場所だけでも続いてほしいという気持ちになったのでしょうか。

ひるがえって今私が働いてお金をもらっているのも、今の会社で「あなたは生きていていいよ」と判断されているからなのでしょうか。

とりとめがなくなったので、大好きな谷川俊太郎の詩の一節でしめます。
  ー愛情をお金であがなうことはできません。
   けれどお金に、愛情をこめることはできます。
    谷川俊太郎「愛する人のために」

頂いているお金に感謝をして、心のこもったお金の使い方をできるような人生でありたい。
関連記事

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。